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常山紀談
十四
石田西国の諸将おかたらひて兵お起す時、諸大名の北の方お、大坂城中に取入んとするお、北の方〈○細川忠興妻〉聞て樽に付られし、河喜多石見、稲留伊賀、小笠原正斎お呼て、吾此所お出ん事思ひもよらず、城中に取こめられんは恥辱なり、よく断お申候へ、猶聞入られずば、是お限と思ひ定むべしと語られしかば、正斎殿東国に向はせ給ひし時、おもひかけざる事のあらんには、正斎はからひて、武将の恥なさらしそと、仰置れ候ひき、敵奪ひとらんとするならば、其時思召切せ給へと申しけり、かゝる処に城中に入よと使お以ていはせしかば、再三断の旨お述けれども聞入ず、七月十七日の未の刻ばかりに、大坂の軍兵五百余り、玉造口の屋敷おとりまきて、とく城中に入申されよ、さらずば乱入て奪取んと呼はりけり、女房ばらあはてゝ泣悲めども、北の方はさわぐ色もなく、かくあらんとは兼ておもひ設つる事ぞとよ、正斎介錯せよ、われ生る世にまみえざりし人々に、死しての後も見られんはよからじとて、面に覆面打かけ、くゝり袴著て刀お抜、胸につきたてられしかば、正斎眉尖刀にて介錯し、其まゝそこにて腹お切んとせし処に、正斎が小性はしり来り、殿の北の方と同じ所に自害あらば、後の誹の候べきと雲ければ、正斎あまりのいたましさにわすれたるよとて、障子の外に走り出、家に火お懸け、石見と共に腹切て、炎の中に死したりけり、