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常山紀談
二十
関け原乱の後、毛利〈森とも記せるあり〉豊前守勝永は、土佐へ流罪せられしに、大坂に事起ると聞、或夜妻にいひけるは、我罪有て、かゝる所に居住し、女にも斯うき事お見する事ぞとよ、されども我志あり、詞にあらはしがたし、と語りければ、妻のいはく、世の変はいかなる人も、はかるべからず、かく成はてたりとも、更に悲しむべきにあらず、妻は夫に従ふ道とこそ聞て候へ、其御志お承らばやといふ、勝永雲、我武名お伝へて、数世に及びぬるに、かく沈み果なん事、口惜き事なり、命お秀頼公に奉りてんと思へども、我援に忍び出なば、憂がうへにも、猶うき事や、御身の上に添らんと、涙お落しけるに、妻つく〴〵と聞て、打笑ひ、弓箭取の妻となりて、いかでかかゝる事おおそれなんや、はや此暁船に乗て、武名お潔くし給へ、君のため、家の悦び、何事かこれにしかん、わらはが事な思ひ給ひそ、いかにもなり給ひたらば、此島の波に沈み候べし、運命めでたく、頓て逢奉らん、急ぎ給へといひければ、勝永悦んで、小舟に取乗、大坂に到り、籠城しけり、其後山内対馬守より豊前が妻お、固くいましめおきがくと告られしかば、東照宮聞し召、勇士たる者の志、感賞すべき事なり豊前が妻、罪する事有べからずと、懇に仰有ければ、豊前が妻、大坂の城中に入けるとそ、