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壼の石文
九/貞女烈女の判
今の世 ときわぎ物がたり
延宝年中の比とかや、武蔵の国とねづと雲ふところに住ける小沢氏といふ人、松といふむすめおもてり、かたちすぐれ心おとなしかりけるお、十七のとし、おなじあたりの野口氏と雲人にめあはす、女心いとうつくしかりければ、夫につかへてうや〳〵しく、舅姑によめづかひ孝行なり、野口が父母天然の後、男不幸にして癩になりにける、〈○中略〉松一人のみ夫おはごくめり、〈○中略〉松が父は、〈○中略〉我切におもふむすめお、見ぐるしきかたひにあづけおくこそ遺恨なれ、とりかへして異人にゆるし、ゆたかなる末の代おも見ばやとおもひ、むすめおよびてそのやうおいへば、女はなみだ隙もなく、漸々いふやう、いとこそなさけなきおやたちかな、かれおわれさへすてなば、たれかこれおはぐゝみてん、ひと日のうちに死にこそうせめ、よにあるときばかり夫にて、かくなりはてゝは夫にあらずや、夫の不幸は我不幸なり、再嫁の事はゆるし給へ、ともかうも病夫おこそ見はてめといひすてゝ庵にかへり、其後はおや里へもゆかず、〈○中略〉野口も我ゆへに、妻にさへうきめお見せ、あらぬありさまのおとろへお、くるしみてあることよとおもひ、或時女にむかひていひけるは、我こそかゝる身となれ、そこはなどわれゆへにあさましき目お見せむや、父母のためも恥辱なれば、里に帰り、いかなる人にもあひなれて、行末めでたき有さまおきかば、さてこそわれもうれしからんといへば、女はうつくしうわらひて、つれなき人のことばかな、千代とかねたる夫の、あしきやまひうけたまひ、今かくあさましく成給ひしほどにとて、それお見すてゝ、又富貴なる人に嫁せんや、よにある時のみが夫婦にて、かくおとろへたるときは夫婦ならずや、君つゝがなくて、我やまひおうけば、すて給はんや、返す〳〵なさけなき人の心かな、せひそひ給はむ事かなはずば、いかなるふちにも身おこそなげめ、などてか異人にはまみへん、それさもなくば、ようづみづからにまかせ給ふて、心やすく養生あれかしといへば、野ろ涙おおさへ、此うへはともかくも心にまかせ給へといへば、女もようこびいよ〳〵いたはり、おこたる事なかりけり、とかふして野口十とせばかりやみて、ついにその分野(ありさま)にて死にければ、ふかくなげゝどもせんなく、定る野辺のけぶりとなし、夫のために三年がうちおなじいほりにこもり居て、夫の事おなげきつゝ、其身もついに身まかりしとなり、