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比売鑑紀行

いつの比なりけん、渥美何がしといふものゝ妻に、永井氏のむすめあり、心ざま貞順にして、つゝしみふかく、ことばすくなし、父は一城の主なりしかば、おさなきより富貴のわざになれそみたり、おとこは禄うすくして、よろづにわびしかりけれども、妻これにたへていさゝかくるしげなるいうなし、しかも夫妻の礼うや〳〵しき事、まれびとのごとし、十とせばかりおへてのちに、おとこやまひしてうせぬ、おのこ子一人あり妻なげきかなしめる事かぎりなし、からおはうふり、たまおまつる事、みなその心おつくせり、しかるに妻の兄あり、そのとしわかくして、ひとりはえたふまじきおおもひて、しいて心ざしおうばはんとしけれど、やもめこれにしたがはず、兄いかりてなおおして再嫁おなすべしと、一族とともにあひはかりて、事すでにせまりぬ、やもめひそかに閨にいり、自害せんとして、すでにかたなおおしたてけるお、めしつかへの女どもはしりかゝりて、とりとゞめけるに、血ながれてやまず、兄これにおそれて、二たび縁のさたいはじとちかひければ、やもめいとうれしげになりていはく、さ思ひ給はんに、などかおさなき者おすてゝ、みだりに死おいそぎ侍らむやとて、それより子おねやのうちにやしなひ、いみじくおしへそだてけり、此人もとより出あそぶ事おこのまず、ことにやもめとなりぬる後は、おとこの墓おがみより外に、かりにも門お出る事なし、節おまほれる事、大むね此たぐひなり、年いまだ四十にみたずして身まかりぬ、その子母のおしへによりて、身おたて人にしられたり、時の人此やもめお貞婦とよびて、ほめあへりける、