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彝倫抄
仁とは、心の徳、愛之理と雲心なり、本心に生れ出るより具しぶいづるものなり、そとへあらはるヽときは、物お見てあはれみいたむ心なり、この心人々にむまれつきてあれば、聖人と別にかはることなし、たとへば仏法に人々具足、箇箇円成直指人心見性成仏といへるも、粗相似たり、かくのごとく、本心の仁は、聖人と同じきに、なにお学問おするぞと申せば、その仁心はありながら、或は欲心にひかされ、或は気質のうけやう、あしくありて、邪念惡心がきざして、あはれむべきことおもあはれまず、かなしむべきことおもかなしまず、君おあなどり親おそむくにいたることなり、そこおなおさんための儒の教へなり、人々仁の6ある証拠お、孟子にあらばされたり、たとへば、二つ三つになる子が、井のもとのあたりおはふて、すでにおちんとせば、いかなるものにても、やれかばゆきことよと、心のおこらぬものはあるまじきなり、その心はたしなみて、人によくいはれんとて出るにてもなく、其子の親と智音にて、いづるにてもなきなり、本心よりあらばるヽ念なり、今時にても其証拠あり、舞や謡やなどの、あはれなるおきヽては、皆人涙おながした戚ずるなり、心にわたくしなきゆへにかくのごとし、今日欲心になりては、父子兄弟の間も、たがひにあだがたきとなる、あさましきことなり、此私の心さつて、天理の本然の仁心にかへれと、教へ申すなり、これ仏法にては、物の命おころさず、隻慈悲利益おする心なれば、殺生戒もおのづから仁の道にこもり申すなり、