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孝義錄
六/武蔵
奇特者新井孫助
足立郡〈○武蔵〉庄左衛門新田の民に新井孫助とて、〈○中略〉すぎはひもゆたかなりしが、明和三年出水ありて、其あたりのたなつもの、みなみのらず、年の貢ゆるくせん、多少おはかるとて、時の御代官辻源五郎、其村々お見廻りしに、かの孫助がかまへのうちには、土たかうつき上て、ぬりごめの家建並べたり、何の為ぞととひしに、孫助いへらく、これより先の年に出水おほかりしが、草加宿おはじめ近き村々の人馬、火しくなやみしまゝに、己が父権左衛門がはからひにて、諸人のたすけとなし、又はむまや路の役つとむる馬、もしそこなひなば、おほつけの用、おのづからかく事あらんとて、縦十七間横八間高さ七尺あまりに、土おつきたて、これお水塚と呼やり、其上に縦三間横八間の家一、縦二間よこ六間の家一おいとなみ、皆二階につくり、其家のうちに粥たく大釜一つお居へ、かはや二つおつくりこめたり、出水の折は、草加宿ならびにあたりの村々へ般お廻し、かの家に満る程は、いくたりとなく呼あつめ、馬おば其軒下につなぎて災おさけさせんまうけなるよし、今年もやゝみかさまさりぬべきさまなれば、例の船廻したれど、かの塚へ集るばかりの水にもあらで、よその村々よりはよりも来らず、たゞあたりのものゝみ、あつまりしが、やがて水も退きぬれば、人々も帰りぬるよし、父のまうけ、いとけなげなれば、いよ〳〵孫助も其志おつげり、かの両新田にすめる貧民は、とし〴〵孫助がたすけおうけざることなく、わきてかの年は、関の東の国々おしなべて、水の災にあひ、貧しき限りは、人の門々にたちて、物乞ふも数多かりしお、両新田は皆孫助が助おうけたれば、さる事もせざりき、〈○下略〉
○按ずるに、私物救荒の事は、歳時部豊凶篇に在り、