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百家埼行伝

沢井智明
洛東大和おほ路第三橋の南に大黒屋伝兵衛といふ者あり、数代慈悲家にして家殊に繁昌す、別家数十家あり、〈○中略〉天明完政のころは、九代におよぶ伝兵衛なり、氏は沢井、名は智明、経学おこのみ、粟田流の書およくし、また道学おまなびて、慈悲心ふかく、もつはら貧民お憐み、我家は倹おもちひ、能他の人に物お施す、文化年中、摂河両国洪水の時も、若干の金銀お投うちて、窮民お救し事おびたゞし、亦年々極寒のころ、夜ごと洛裏洛外お徘廻し、極貧の者お看著て、米銭お施すこと多年、かつて姓名おかくして、他に語る事なし、然ども隠たるより顕るゝはなしと、いつしか公庁に達して、忽ち宣(めさ)れて褒詞褒賞おたまはりけり、〈○中略〉都て家より二三丁四方の小家は、這大黒屋の恩にあづからざる者は希なりしとぞ、他家といへども、傾廃におよばんとするお看ては、是お歎て、みづから求て其家にゆき、何呉(くれ)と執まかなひ、再興おなさしむる、其才智また賞しつべし、公庁より褒賞おたまはりし事、五六度におよべるとぞ、