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近代正説砕玉話

伊達左京大夫政宗二十四歳、小田原の陣に来りて、臣従せんことお求む、諸将隻今せむる氏政お患へずして、小田原陥らば、其次はかならず陸奥お征伐せられんと、却て正宗お患へたる折ふしなれば、皆ごれお悦ぶ、秀吉おもひのほかに、遅参お怒り、〈○中略〉正宗敬屈の過お謝す、二三日すぎて、秀吉具足服織お著、床几に尻かけて、礼お受けらる、正宗拝謁して退んとする時、秀吉遅参お悪といへども、対顔お許の上は念に止めず、此まで遠来の馳走に、陣営お見せん、後の山に登れとて、先に立れければ、正宗跡にしたがひて山に登る、奥州に於て、小迫合には馴たりとも、大合戦の人衆配りは、未だ見るべからず、援の営は此理なり、かしこの陣は此意なり、見置て手本にせよと、一々指て教らる、秀吉刀お正宗に持せ、童子一人具し、片岸に立て、終に後お省ず、正宗お惷虫とも思れぬ体なり、正宗後に我小田原において、秀吉に謁せし時力ヽることあり、其時たヾ恐れ入たるばかりにて、一念の害心起らず、大器にして天威ありし人なりと語られき、