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明良洪範
十一
加藤左馬助嘉明は、初めは小身成しが、後に会津四十万石お領し、智勇仁徳の良将也、故に土民よく伏する也、慶長年中、南京より渡る所の成化年製の焼物の器お多く買入たり、其中十枚小皿あり、是は世に雲虫喰南京と雲物にて、藍色土目等得も言れぬ出来也とた、殊に秘蔵しけるに、或時客饗応の節、近習の士其小皿お一つ取落し破る、其士大に恐れ、閉居せんとする由お聞き、早く呼出し、皿破る迚何ぞ閉居するに及んや、敢て苦しからず、残りの皿お取寄せ、悉く打砕きて、此皿九枚残り有る中は、一枚誰が麁相して破つたりと、いつ迄も女が麁相の名お残す事、吾本意に非ず、何程尊き器物なりとも、家人には替難し、凡器物、草木、鳥類などお愛する者は、其為めに却て家人お損ふ事出来る物也、是主たる者の心得べき事也、珍器奇物は有ても無ても事欠ず、家人は吾四肢也、一日も無くては成らぬ者也、天下国家お治るも家人有る故也と語られしと、其近習の士話されしと也、