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雨窻閑話
一里塚始並五左衛門井戸の事
或君の曰く、余が、家お継ぎて、領分のうち在々お巡見の時、金方村とかやいふ処の片隠に、うつくしき水湧き出づる井あり、余こゝに立ちよりて、その水お掬し見るに、其清き事いふ許なし、時に傍に六十余の老婆うづくまりありけるお召して、此水は至りて清浄水なり、里には此水お遣ふにやと尋ねたりければ、老婆の曰く、凡此あたりの民家二百軒許、皆此水お遣ひ候、それにつき物語の候、此村元来水あしき所にて、一向に用ひられず、我父ふかく是お歎き、壮年の時より大願心おはつし、薬師如来へ立願して、かなたこなたに井戸お堀りたる事、八十け所に及ぶといへども、更によき水お求め得ず、最早勢力も労れ、老年に及びて、漸く此所の井お堀りあて、終に其翌日果て申し候、其故に此井おば、五左衛門井戸と唱へて、今に親の名お唱へ来り候、是も最早四十年許にて候が、夫よりして、一村うちより、此姥に扶持お呉れ候ひて、此井の主になり、いと安楽に暮し申し候も、父のかげにて候、今日は殿様御通と承り候ゆえ、井戸守の事に候へば、此所に罷り出で候と申たり、〈○下略〉