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太平記

安東入道自害事附漢王陵事
安東左衛門入道聖秀と申せしは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に、我文お書副て偸に聖秀が方へぞ被遣ける、〈○中略〉空き跡お見廻せば、今朝までは奇麗なる大夏高墻の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙お残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も多く戦場に死して、盛者必衰の尸お余せり、悲の中の悲に、安東涙お押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文お捧たり、何事ぞとて披見れば、鎌倉の有様、今はさてとこそ承候へ、何にもして此方へ御出候へ、此程の式おば身に替ても可申宥候なんど様々に書れたり、是お見て安東大に色お損じて申けるは、栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり、武士の女房たる者は、けなげなる心お一つ持てこそ、其家おも継、子孫の名おも露す事なれ、〈○中略〉今事の急なるに臨て、降人に出たらば、人凱恥お知たる者と思はんや、されば女性心にて縦加様の事お被雲共義貞勇士の義お知給はざる事やあるべき、可被制、又義貞縦敵の志お計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名お失はじと思はれば、堅可被辞、隻似るお友とするうたてさ、子孫の為に不被憑と、一度は恨、一度は怒て、彼使の見る前にて、其文お刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける、