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明徳記

殊更ためしもなき哀なりしは、和泉の堺に坐しける奥州〈○山名氏清〉の御台の有様也、〈○中略〉御輿の内、あら〳〵とはたらき給ふ様に聞えしかば、人々あやしみて、急ぎすだれおかヽげ見進せければ、小袖の袖の下に刀お取副て、自害おして伏給ける、〈○中略〉御自害半にて未だ事きれさせ給はず、〈○中略〉正月〈○明徳三年〉四日の暮程に、根来へ入進せたりけり、能々痛はりまいらせて、たすかり給ふべき人にて坐しけるお、薬の事は申に及ばず、更々湯水お御まいり給はねば、れうぢの事も絶はてぬ、隻時お待進給へり、かヽる所に宮田の右馬助入道、舎弟の七郎、何としてか知り給けむ、自害半にて根来に坐す由聞給て、正月七日の暮程に忍て尋来り給けり、御台の御かいしやくに、難波の三位殿と申女房の有けるに、尋寄て宣せけるは、不思議に今度の合戦に、敵御方に推隔てられて、故殿〈○山名氏清〉の御共申候はぬ事口惜く覚て、浮世に住べき心地も無由、昨日今日まで召仕つる者共、皆々心替りして敵に成ぬれば、弥道せばく成て、立寄方も無程に、兄弟ながら出家し、樹下石上の宿おし、殿の跡おも訪ひ進せむと思て侍れば、上様御自害の由承て、遣方も無き思の余りに、今一目見進せんと存候て尋参候也、惜からざる命、中々ながらへて、つれなく見え進せむ事は恥入たる御事なれ共、御目に懸りたき由申入てと宣ければ、難波の三位殿御前に参りて、宮田殿、北殿こそ是へ参らせ給て候へ、大殿の御事はよし〳〵力無御事と思食せ、此御方々恙が無参らせ給たる御事は、歎の中の御悦なれば、とく〳〵見進せ給て、御心おも慰て、御薬おもきこしめして、御心地おも助け給て、御さまお替させおはしまし侍らへと申ほのめかしければ、御台少し見上給たりける御目お塞で、貌おふりて宣けるは、加様に雲つぎ給人の心中もはづかしさよ、先案じても御覧ぜよ、弓矢取人の子の二十に余り、て、父の共に軍の庭へ出て、目の前にて親の討るるお見捨て逃て、身の置所無まヽに、入道するだにもうたてしきに、人の別の悲しさに、ためしなき身の自害して、既に臨終に取向ひたる母に見参せんとは何ぞや、父に増りて思ふべき、母の身にてあらばこそ、其家に馴ぬ人なり共、父お見捨てよも逃じ、況や弓矢お家とする面々の身にての振舞お、我身に案じても見給べし、猶子にしたる小次郎だにも、うれしき道とはよも思はじ、恥お思へば、力なく親と同く討死して、敵御方にほめられき、是程の未練の人々お、子と申せばとて、今生にて見参せむ事は協まじ、今は中々心のはたらくに、我に物な宣そとて、其後は絹引かづきて、つや〳〵物おも宣はず、〈○中略〉正月十三日の墓程に、終に墓無成給ぬ、