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陰徳太平記

香川己斐討死之事
香川〈○行景〉己斐(こひ)〈○師道〉は粟屋、伴、品川に向て、元繁〈○武田〉御討死無是非次第也、然ば当国の探題、源家の正統武田殿が討死し給ひたるに、弔合戦せざらんは、武田の瑕瑾と雲、且は付従たる国人等の恥辱にて候、いざさせ給へ、今夜是より引返し、敵陣に夜合戦おかけ、討死すべきにて候、〈○中略〉行景辞世の歌お詠て、物に書付たりける、
消ぬ共其名や世々にしらま弓引て返らぬ道芝の露、香川兵庫助行兼、邁齢三十三、守為武田元繁麾下之義、今月今日入敵陣戦死畢ぬと書たりければ、師道も是お見て、 残る名にかへなば何か惜むべき風の木葉の軽き命お、己斐豊後守師道入道宗端、行年六十一、因同意趣快死とぞ書たりける、此、する程に、遠寺の鐘暁お報じければ、両勢併せて三百騎、有田の陣へ押寄、大音揚て、是は香川兵庫助行景、己斐入道宗端にて候、昨日元繁討死の刻は、如御存、数十町隔て、相合殿、桂殿と合戦仕候つる故、一同に戦死する事お不得候、然共一旦幕下に属せし義の難捨候へば、弔合戦お遂、一場の快死お執て、万年の義名お留め、泉下に断金の盟お尋候はんと存、是迄馳来て候、敵陣の人々、出合討取て、高名に被供候へと呼はりければ、元就〈○毛利〉是お聞給て、彼等は、武田与力の兵の中には、宗徒の者共也、幕下に属せし義お重んじ、是迄馳来て討死する事、誠に仁義の勇士也、可惜兵お生けて、幕下にこそ置まほしけれ、されども当の敵なれば、出合討取、孝養慇勤に取行候へと有ければ、〈○中略〉一人も不残打死す、骸は行人征馬の麈に埋むと雖、義名は口碑国史の間に可遺と、敵も味方も感称せり、〈○中略〉有田の頸塚と雲是なり、