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陰徳太平記

亀井新次郎経久〈江〉最後之暇乞事
塩冶宮内大輔興久〈○尼子経久子〉は、先佐陀の城に軍士お入置なば、経久定て彼城お可被攻、然ば其時後詰して、一戦の裏に、可決勝負とて、宗徒の兵二十七騎、其外雑兵合せて五百余人おぶ籠られける、援に亀井新次郎は経久へ最後の暇乞せそとて、馬に打乗、侍五六人召具し、富田おさして馳行けるが、已に月山に著しかば、亀井新次郎馳参して候と、先案内お遂たりけり経久人迄も有まじ、これへ通り候へと宣へば、頓て経久の前近く跪る、さて何となく世間の物語などして、後に間近寄て耳言けるは、奉頼興久公こそ、雲々の事候て、御隠謀にて候へとて、始終の事共、一つも不残語りければ、経久、扠は興久、安綱に遺恨有とて、吾に対し謀反お企ける事、言語道断の所存也、〈○中略〉女神妙にも告知せつる物哉、其儘これに止り候へ、此度の忠功に、恩賞は任望て可宛行と有ければ、新次郎挑頭申けるは、いやとよ、立身の為に、主君の隠謀お告知せ申にては候はず、公は三代相伝の主君と申し、殊に吾少年の昔より深く御哀憐お垂給ひ、御傍に被召仕、剰さへ御鐘愛の興久公に被樽置、大小の儀に付て倚頼に被思召候由、蒙厳命候き、此御厚恩身に余り存候間、如何にもして、興久公の御後見仕、一国の主とも、成し申し、万均よりも重き君命に違ざらん事おこそ存候しに、予には引替、興久公斯惡逆至極の御隠謀、前代未聞の御事、此科偏にかう申す新次郎が上に迫て覚候、然其一旦君臣の盟お結て候上は、無是非彼惡逆に奉与、体お洒戦場、名お朽苔下べきと存定めて候也、唯今馳参じ候事は、年来の御厚恩の忝き余りに、最後の御暇乞に、一目奉拝と存ずるが為にてこそ候お、身の罪科お為免、主君の隠謀お告申す亀井と被思召候御心の中こそ、返々も口惜候へ、〈○中略〉三代相伝の経久公の御重恩お不知に似たり、唯御前にて、腹切て死んより外に、又余事なく覚候、然其、某今自害仕候はヾ、興久公御最後に、誰有てか果敢々々敷、軍おも仕候べき、かく申せば、命お惜むに似て候へ其、杵築大明神も冥鑑あれ、今度の合戦、たとひ万に一つ、興久公御勝利候共、某に於は討死可仕にて候、今生の御目見、是迄にて候とて、面も不擡、唯涙にのみぞ咽ける、経久もかれが心の中、忠と雲義と雲、一方ならぬ賢士哉と思給ければ、坐に袂お絞られしが、さらば暇乞の盃せんとて、酒お進められにけり、其後暇申て退出しけるに門外より馬に打乗、弓取て矢お番、亀井新次郎仕候と名乗て、門の柱に矢二筋射立、其より麓に下り、富田の町屋に火お放ち、富田に在合たる人人よ、吾に近付て、手並の程お試られよと高学に哼り、静に馬お歩ませける、