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太閤記

備中国冠城落去並高松之城水攻之事
秀吉、高松之城のやうす、精しく損益お尽し見給ふに、たゞ水ぜめにしくは有まじきと覚ふなり〈○中略〉とて、〈○中略〉五月〈○天正十年〉朔日より大小之河水お関入給へり、〈○中略〉長左衛門尉〈○清水〉湖水日々夜夜に増り行おみて、身の行末の日数おかへりみ、兄の月清入道に雲けるは、如此水まさりなば、溺死旬日之内外たるべし、兄弟腹お切て諸人お助んと奉存は、いかゞ有べきと相談しければ、月清も内々左も有度と砕啄す、さらば難波近松へ請其可否相極んとて、以両使問しかば、猶之事に候、〈○中略〉某二人も同じ道に参り候はんと諾しければ、清水兄弟老母と妻子に暇お請、かれこれ相極てのち、使者お筏にのせ出し、秀吉へ右之旨以書簡伸素意、〈○中略〉両人此状お秀吉御前へ持出、此旨かくと申上しかば、其心ざしお感じ給ふて、可応其求之条、可然様に相計可及返簡となり、〈○中略〉難波近松も二之丸に船お待詫て有し処に、月清長左衛門尉見えしかば、即同船してさし出ぬ、〈○中略〉前夕秀吉は堀尾茂助おめして、〈○中略〉女明朝船にて出向ひ、撿見候へと仰せられしかば、堀尾心ある士にて、柳一荷、折一合船につみ出にけり、〈○中略〉かくて酒も過しかば、月清入道我より始んとおしはだぬぎて、矢声して腹十文字にかき切てけり、残る三人もきらよく腹お切、〈○中略〉五日の朝堤お切候へば、水滝なつて落行声千雷のごとし、