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常山紀談

織田信孝、秀吉と弓箭おとる時、信孝の乳の人お、人質に秀吉のもとに出し置れしお、磔にして誅せらる、かの乳の人の子は、幸田彦右衛門とて、信孝の士大将なり、是より前、秀吉、信孝の長臣等おかたらはるゝに、岡本下野守は同心して、信孝に背きけれども、幸田は背かず、幸田が母誅せらるゝに及て、子の彦右衛門に書お送りて、我今空しく成こと、ゆめ〳〵歎くべからず、親は必子に先たつ習ひなり、唯忠義お守りて、君にな背き参らせそと言遣はしければ、聞人感じあへり、天正十一年四月十八日秀吉の先陣、信孝の地に責入る時、幸田兄弟いさぎよく討死したりけり、幸田が母は、実に漢の王陵が母の志とも雲つべし、但し王陵が母は天下おしろしめすべき高祖の事お識たれども、隻今危難に迫れる織田家に忠お尽せといへる、真にありがたきことなるべし、