[p.1201][p.1202]
武辺咄聞書

一家康公大坂〈江〉御取寄可被成前方に、真田隠岐守信尹〈真田一徳斎末子にて、安房守昌幸弟にて左衛門佐信賀が伯父なり、〉お御使にて、真田左衛門佐信賀方へ被仰遣候は、秀頼合力の心お飜し、味方に参り候はゞ、信州にて一万石可被下との上意也、左衛門佐承り、上意之趣難有奉存候、然其信賀事は、開け原一戦に御敵仕、其罪科に依て、九度山に蟄居仕候て、山賤之体に罷在候処、秀頼公より召出し、相備八千余の大将に被仰付候処、何より忝存候間、心替候義は、罷成間敷旨申切けり、此旨隠岐守申あげしかば、左候はゞ、重て信濃国一国お、一円に可被下と被仰出、隠岐守此旨重て被遣、左衛門佐大に怒て、忠義に軽重なし、禄の多少に寄べきや、一度秀頼公の御扶持お受候上は、討死と志候、作去若御和談に成候はゞ領知の望なし、貴殿の合力お請、関東へ奉公可仕候、合戦有之内は、大坂に罷在うち死仕候条、重て上意の御取次、可為無用と申切けり、