[p.1203][p.1204]
明良洪範

延宝六年の飢饉に、若州にても大、分餓死人有り、右田坂、或日乞食の集り居ける所お通りけるに、其中一人眼中隻者ならずと見えければ、家来お以て申遣はしけるは、領内の上石か、他領の者か、定めて凶年によりて、其体に成しならん、人の多く見知、らぬ内に、早く我方へ来るべし、扶持すべき也と申送りけるに、彼乞食隻打笑て答ず、使の者再三申せ共答ず、田坂は乗物の内に在て、此体お見頓て立出、彼乞食の側へ立寄りて、女は元より乞食とは見えず、多くの人に知られざる内に、我方へ来れ、何とて再三申に答せぬぞと申されければ、こつ食坐お正くして答けるは、御仁心の程忝く存候へ共、乞食仕らざる前ならば、御家来に成べし、一日たり共乞食になれば、こつ食の名は遁れず、御家来に成ぬこそ、其御恩お報ずる所にて候、田坂曰、我方へ来らざるお以て、恩報じとは如何なる所存ぞ、乞食曰、私御家来に参りなば、田坂殿は乞食お召仕はるヽと沙汰有んには、主人お恥しむる也、且傍輩衆も何ぞに付ては、彼は乞食せし者也と侮らん事必定也、其時は討果し申さずしては、男の道立ず、さ候はヾ由なき私お御抱へなされし故、旧き御家来お失ひしと思召れん、是災の本なれば、御家来に成ざるこそ、御志の御恩報じなるらめと雲捨て立去ける、田坂弥執心して尋出し、米銭等送りなどしけるに、後には辞して受ず、再び立去て姿お見せず、此乞食、他領へ行て順礼しけると也、若州小浜の者は土民迄知る所也、誠に古今希なる乞食也、