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鳩巣小説

一甲賀孫兵衛、是は稲葉丹後守どの家来に候、〈○中略〉弟一人有之、式部と申候、段々不行跡等有之候て、丹後守殿と散々不和にまかりなり候て、孫兵衛に討て参候様に申付られ候、孫兵衛申候は、猶無御余議事にては可有之候へども、御連枝様の御義に候、何卒御了簡被遊候様と再三申候処、左様に断申事、役に立申まじく候、其心底にては迚成まじく候、余人に可申付と申され候、此時孫兵衛、未だ前髪に て十六歳にて候、〈○中略〉孫兵衛申候は、是は無御情御意と奉存候、此上は達て被仰付被下候へと申候へば、夫ならば討留参り候へと申付られ、〈○中略〉偖式部どのへ罷越、家来お以て申入候は、甲賀孫兵衛、大切の御使に参申候、撿使に何某被仰付候、左様御心得らるべき旨申入候、式部どの聞被申、大方合点覚悟の前也、是へ通り候へとて通し申され、金鐔の大脇差抜くつろげて、是へ参り候へと申され、近く寄候はヾ、討て捨申由被申候、其時孫兵衛、大切の御意にて御座候ゆへ、とかく近くこり候て、申上べき旨申候て、脇差おぬき、二三間も投、丸腰に成り、近より申候、此仕合故、式部殿も少しゆるかせになられ候、孫兵衛手おつき、段々御不行跡の事、け様け様の御意にて候、此上は其分に差置れ難く候間、私参候て、奉討候やうにとの御意に御座候由、申も果ず、其まヽ飛掛り力量有之候ゆへ、式部どのお押付、懐中より九寸五分お取出し、胸元へ押あて、彼撿使お呼候て、此体慥かに見届申さるべく候、腰あ抜け不申候間、左やうに心得候へと申候て、さて式部どのお引立、是迄に御座候、早く御立退なされ候へ、私御供仕べき旨申候て、夫より式部殿と逐電いたし候、撿使も同心にて、早く急ぎ御立退候やうに申候て、のかせ申よしに候、〈○中略〉始終見ごとなる仕かたにて御座候、