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甲子夜話

吾師皆川子の話たるは、天川屋儀兵衛と浄瑠璃本にあるものは、其実尼崎屋儀兵衛と雲て、大坂の商估にして、浅野内匠頭の用達なり、大石内蔵助復讐の前、著込の鎖帷子お数多く造たることに預りしが、町人の武具用意と雲風聞ありて、官の疑かヽり、呼出て吟味あれども、陳じて言はず、後は拷問すれども言はず、終に其背おさきて、鉛お流し入るに至れども白状せず、あまりにきびしき拷問によた、死せそとせしこと幾度も有しとぞ、然れども白状せざれば、久しく囹御に下り居しが、江戸にて復讐のことありと、牢中にて聞及び、儀兵衛改めて申には、追々御吟味のこと白状仕度となり、乃呼出て申口お聞に、その身浅野家数代の出入にて、厚恩蒙し者なり、彼家断絶の後、大石格別に目おかけ、一大事お某に申含、江戸にては人目有とて、此地にて密に鎖帷子お造りたり、全く公儀への野心に非ず、はや復讐成就の上は、何様にも御仕置奉願と雲ける、之お聞て奉行お始め、其場に有りあふ人々、皆涙お流さヾるは無かりしとなり、