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孝義錄
二十七/能登
孝行者久右衛門
久右衛、門は羽咋郡生神村にして、持高八石九斗あまりの百姓なり、〈○中略〉明和三年、摂津の国神月孫三郎が船の、生神村領の沖にて破船して、水主のきたる物も流し、赤裸にて陸にあがれるお、久右衛門衣おあたへ、船頭十四五人の者のために木綿おかひ、村の内の女に、わかちぬはせて、その縫賃おだにうけず、かの船にありつる金五拾両と銭百貫とお失ふといふお、ほどへてきゝ、海のおだやかなるおうかゞひ、久右衛門一人、船にのりてかの沖に出、金おとり出して、船頭にあたへしが、壱両たらざりしお、猶船頭とともに船お出して、やう〳〵にもとめ得てわたし、又村の者どもおかたらひ、彼百貫の銭おものこりなく取上てわたせしかば、船乗の者も感じあひて、福浦といふ所に船かゝれる時は、かならず久右衛門に音信けり、