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字治拾遺物語
十四
これもいまはむ、かし、月の大将星お犯といふ勘文おたてまつれり、よりて近衛大将、おもくつふしみ給べしとて、小野宮右大将はさま〴〵の御いのりどもありて、春日社、山階寺などにて、御所あまたせらる、そのときの左大将は、枇杷左大将仲平と申人にてぞおはしける、東大寺の法蔵信都は、此左大将の御所の師なり、さだめて御所のことありなんと待に、おともし給はねば、覚束なきに、京に上りて、枇杷殿にまいりぬ、殿あひ給ひて、何事にてのぼられたるぞとの給へば、僧都申けるやう、奈良にてうけ給れば、左右大将つゝしみ給べしと、天文博士勘申たりとて、右大将殿は、春日社、山階寺などに御いのりさま〴〵に候へば、殿よりもさだめて候なんと思給て、案内つかうまつるに、さることもうけ給はらずと、みな人はおぼつがなく思給て、まいり候つるなり、なお御所候はんこそ、よく候はめと申ければ、左大将の給やう、猶えかるべきことなり、されどおのがおもふやうは、大将のつゝしむべしと申なるに、おのれもつゝしまば、右大将のためにあしうもこそあれ、かの大将は、才もかしこくいますかり、年もわかし、ながく大やけにつかうまつるべき人なり、おのれにおきては、させることもなし、年も老たり、いかにもなれ、何条ことかあらんとおもへば、いのらぬなりとの給ければ、僧都いろ〳〵と打なきて、百千の御祈にまさるらん、この御心の定にては、事のおそれ更に候はじといひてまかでぬ、されば実にことなくて、大臣になりて、七十余までなんおはしける、