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十訓抄

四条大納言〈○藤原公任〉完弘二年の比、月ごろうらみのありて、出仕もし給はず、大納言辞退し申さんとせられけるに、匡衡お招て辞表お奉らんと思間、時英、斉名、以言等に挑へしむといへども、猶心に不協、貴殿ばかりに書ひらかれんと思といはれければ、匡衡なまじいにうけとりて、家に帰て愁嘆の気色あり、時に赤染衛門何事ぞとたづぬるに、かゝる事なり、後輩は才学優長也、しかるおそれにまさりて書のべん事、きはめて有がたしと答へければ、赤染打案じて、彼人ゆゝしく矯飾ある人也、わがみの先祖やんごとなきものにて有ながら、沈淪の旨おかゝざる歟、早く此旨お書べしと雲、匡衡かの輩の草お見るに、実に其趣なし、猶しかるべしとて、打立に雲、臣は五代の太政大臣の嫡男也、曩祖忠仁公より以来と雲より次第にかぞへあげて、我身の沈める由お書て持て行所に、感嘆して悦べる気色なり、仍是お用ひられけり、