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源平盛衰記

平家繁昌並徳長寿院導師事
忠盛朝臣備前守たりし時、鳥羽院御願徳長寿院とて、鳳城の左、鴨河の東に、三十三間の御堂お造り進じ、一千一体の観音お奉居、勧賞には闕国お賜べき由被仰下、但馬国お賜ふ、〈○中略〉
五節夜闇打附五節始並周成王臣下事
加様に忠盛仏智に協ふ程の寺お造進したりければ、禅定法皇叡感に堪させ賜はず、被下遷任之上、当座に刑部卿になさる、内の被免昇殿、昇殿は是象外の選なれば、俗骨望事なし、就中先祖高見王より其跡久く絶たりし、忠盛三十六にして被免けり、院の殿上すら難上、況内の、昇殿に於ておや、当時の面目、子孫の繁昌田覚たり、〈○中略〉雲の上人嘲憤て、伺年〈○長承元年〉十一月の五節、二十三日の豊明節会の夜、闇打にせんと支度あり、忠盛此事風聞て、我右筆の身に非、武勇の家に生て、今此恥にあはん事、為身為家心うかるべし、又此事お聞ながら、出仕お留んも雲甲斐なし、所詮身お全して君に仕るは、忠臣の法と雲事ありと雲て、内々有用意、〈○中略〉縫殿陣黒戸の御所の辺にて、怪人こそ遇たりけれ、忠盛見咎て物おばいはず、一尺三寸の鞘巻お抜、手の内に耀様なるお、髭の髪にすはりすはりと掻撫て、良ありて哀是お以て猿藉結構する惡き者に、一当当ばやと雲ければ、あやしみたる人則倒伏にけり、勘解由小路中納言経房卿、其時は頭弁にて折節通合給へり、花やかに装束したる者、うつぶし伏たりける間、誰人ぞとて引起給たれば、わななく〳〵弱々しき、声にて、忠盛が刀お抜ぐ我おきらんとしつるが、身には負たる疵はなけれ共、億病の自火に攻られて絶入たりけるにやと宣へば、経房卿はあな物弱や、実に闇打の張本とも不覚とて見給たれば、中宮亮秀成にてぞ御座ける、〈○中略〉忠盛身のかたわお謂れて、安からず思へ共、無為方、著座の始より、殊に大なる黒鞘巻お隠たる気もなく、指ほこらかしたりけるが、乱舞の時も猶さしたりけり、未御遊も終らざるに、退出の、次に、火のほの暗き影にておほ刀お抜出し、鬢にすはり〳〵と引当ければ、火の光に耀合てきらめきければ、殿上の人々皆見之、忠盛如れ此して出様に、紫震殿の後ろにて、主殿司お招寄、腰刀お鞘ながら抜、後に必尋あるべし、慥に預けんとて出にけり、家貞主お待受て、如何にと申ければ、有の儘に語らば、僻事すべき者なれば、別の事なしとぞ答ける、五節以後公卿殿上人、一同に訴申されけるは、忠盛さこそ重代の弓矢取ならんからに、加様の雲上の交に、殿上人たる者、腰刀お差顕す条、傍若無人の振舞也、雄剣お帯して公庭に座列し、兵杖お賜て宮中お出入する事は、格式の礼お定たり、而お忠盛或相伝の郎等と号して、布衣の兵お殿上の小庭に召置、或は其身腰の刀お横たへ差て、節会の座に列す、希代の狼藉也、早御札お削て可被解官停任由被申たり、上皇は群臣の列訴に驚思召て、忠盛お召て有御尋、陳じ申けるは、郎従小庭に伺候の事不存知仕、但近日人々子細お被相構、依有其聞、年来の家、人為助其難、忠盛に知せずして推参する罪科可有聖断、次に刀の事、主殿司に預置候、被召出依実否咎の御左右あるべき歟と奏しければ、誠に有其謂とて、件の刀お召出して及叡覧上は、黒漆の鞘巻、中は木刀に銀薄お押たり、為遁当座之恥横たへ差たれ共、恐後日之訴、木刀お構たり、用意之体神妙也、郎従小庭の推参、武士の郎等の習歟、無存知之由申上は、忠盛が咎にあらずと、還て預叡感けり、