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源平盛衰記

左右大将事
徳大寺の実定は、大将お宗盛に被越て、大納言お辞申されて、山家の栖に有籠居けり、〈○中略〉実定卿は御身近召仕給ける侍に、佐藤兵衛尉近宗と雲者あり、事に触てさか〳〵しき者也ければ、何事も阻なく打解被仰合けり、彼近宗お召て宣けるは、平家は桓武帝の後胤とは名乗ども、無下に振舞くだして、僅に下国受領おこそ拝任せしに、忠盛始て家お興、昇殿おゆるされし子孫也、当家は閑院、始祖太政大臣仁義公〈○藤原公季〉より巳来、君に奉仕、代々既に大臣の大将おへたり、今宗盛に被越て、世に諂ん事為身為家、人の嘲お可招、されば出家おせばやと思召、いかヾ有べきと仰けるに、近宗申けるは、御出家までは有べからず、〈○中略〉就中今度の大将、朝家お可奉恨御事にあらず、偏に太政入道〈○平清盛〉の雅意の所行也、かヽる憂世に生れ合せ給へる御事口惜けれ共、賢は愚にかへると雲事も候へば、今はいかにもして、入道の心お取せ給て、一日也共大将に御名お係させ給べき御計ごとこそ大切なれ、それに取て安芸厳島へ御参詣ありて、穂に出て此事お祈申させ給べし、彼明神おば平家深く奉崇て、其社に内侍と雲者お居られたり、彼内侍共毎年一度は上洛して、入道の見参に入と承はれば、懸る御事こそ有しかなんど語申せば、明神の御計もあり、又入道もいちじるしき人にて、思直さるヽ事も有なんど申ければ、近宗が計可然とて、やがて有御精進、厳島へぞ参給ふ、〈○中略〉四月二日は厳島にも著給ふ、〈○中略〉御参籠は七箇日也、其間内侍共も常に参て、今様朗詠し、琴琵琶弾なんどして、旅の御つれ〴〵、様々情ある体に奉慰、実定卿も御目お懸られたり、〈○中〉〈略〉さても七日過ぬれば、都へ帰り上給ふ、〈○中略〉内侍共一夜の泊まで御伴申て、其夜は殊に名残お惜奉、明ぬれば暇申けるお、実定宣けるは、余波は尋常也と雲ながら、此は理にも過たり、何かは苦かるべき、都まで送付給へかし、又もと思ふ見参もいつかはと覚て、あかぬ思の心元なきぞと仰られければ、内侍共さらぬだに難忍なごりに、角こま〴〵と宣ければ、都までとて奉送けり、舟の泊やさしきは、明石、高砂、須磨浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊のこも枕、漕こし船の習にて、鳥羽の渚に舟おつく、是より人々上つヽ、徳大寺へ相具し給て、両三日労りて様々玩引出物賜たりける、さても内侍暇給て下けるが、入道の見参に入んとて、西八条へぞ参たる、入道出会て、いかにと問給へば、内侍申けるは、徳大寺大納言殿、今度大将に漏させ給へりとて、為御祈誓遥々と厳島へ御参籠七箇日、尋常の人の社参にも似させ給はず、思食入たる御有様も貴く見させ給へる上、事に触て御情深、内侍殊に不便にあたり奉給つれば、傍々御遺惜て、又もの御参も難有ければ、都まで送付たれば、様々相労れ奉て、色々の御引出物賜て下侍るに、争角と可不申入とて参てこそと申ば、入道本よりいちじるき人にて、涙おはら〳〵と流給へり、やヽ有て宣け る は、近衛大将は家の前途也、歎給も理也、夫に都の内に霊仏霊社、其数多く御座、此仏神お閣て、西海はるかに漕下、浄海が深奉崇憑、厳島まで被参詣けるこそ糸惜けれ、明神の御照覧難測、其上今度は理運也しお、入道が計にて、宗盛お挙し申たるにこそ可計申とて、けしからず泣給へり、内侍共玩引出物なんど給で被下けり、其後やがて重盛の左に御座けるお、辞申て右にうつし、実定卿お挙申て奉成、左大将いつしか同五月八日御悦申あり、今日佐藤兵衛近宗お、左衛門尉に成れける上、但馬国きの崎と雲大庄お賜はる、神明忽に御納受貴きに付ても、近宗が計神妙とぞ思召ける、