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源平盛衰記
三十四
東国兵馬汰並佐々木賜生唼附象王太子事
近江国住人佐々木四郎高綱、佐殿〈○源頼朝〉の館に早参して、所存ある体と覚へたり、〈○中略〉佐殿宣けるは、此馬〈○生唼〉所望の人あまた有つる中に、舎弟蒲冠者も申き、殊に梶原源太直参して真平に申つれ共、若の事あらば乗て出んずればとてたばざりき、其旨お被存よと仰ければ、高綱聊もそヽろかず、座席になおりて畏り、宇治川の先陣勿論に候、高綱若軍以前に死ぬと聞召さば、先陣は早人に被渡けりと可被思召、軍場にて存命と聞召ば、宇治河の先陣高綱渡けりと思召れよ、もし他人に先お蒐られて本意お遂ずば、敵は嫌まじ、河端にても河中にても、引組て落し、勝負お決すべしと申定て出にけり、〈○中略〉源太は磨墨ほめ愛して居たる処お、舎人共生唼引てぞ、通ける、ゆヽしく見えつる磨墨も、勝る生唼に逢たれば、無下にうてヽぞ見えたりける、〈○中略〉高綱〈○中略〉打通んとする処に、源太打並て雲けるは、如何に佐々木殿、遥に不奉見参、あの御馬は上より給てかと雲懸て押並ぶ、高綱にこと打咲て申様、実に久不奉見参、去年十月の比より近江に侍りつるが、近きに付て京へ打べかりつれ共、暇申さでは其恐有り、又何方へ向へとの仰お蒙らんと存て、三日に鎌倉へ馳下らんと打程に、隻一匹持たりつた馬は疲損じぬ、さては乗替なし、如何すべきと思煩、御厩の馬一匹申預らばやと存て、内々伺きけば、磨墨は御辺の賜はらせ給けり、生唼は御辺も蒲殿も再三御所望有けれ共、御許しなしと承る、さて高綱などが給らん事難協、中々申さんも尾籠也と存て、心労せし程に、由井浜の勢汰にもはづれぬ、さて又馬なしとて留べき事にも非ず、如何せんと案ずる程に、抑是は君の御大事也、後の御勘当は左右もあれ、盗て乗んと思て、御厩の小平に心お入、盗出して夜にまぎれ、酒勾の宿まで、遣して此暁引せたり、隻今にや御使走て、不思議也と雲御気色にや預らんと閑心なし、若御勘当もあらん時は、可然様に見参に入給へとぞ陳じたる、源太誠と心得て、げに〳〵佐々木殿、輒も盗出し給へり、此定ならば景季も盗べかりけり、正直にては能馬はまふくまじかりけりと、狂言して打連てこそ上りけれ、