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源平盛衰記
三十五
高綱渡宇治河事
平等院の小島崎より武者二騎蒐出たり、梶原源太と、佐々木四郎と也、〈○中略〉源太颯と打入て、遥に先立けり、高綱雲けるは、如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければ角申、殿の馬の腹帯は、以外に姚(ゆるまつ)て見(ゆる)物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍蹈返して、敵に笑はれ給なと雲ければ、左も有らん予思て、馬お留、鐙蹈張立挙、弓の弦お口に啖、腹帯お解て引詰々々しめける間に、高綱さつと打渡して、二段計先立たり、源太たばかられけりと不安思て、是も打浸して渡しけるが、馬の足綱に懸て思様にも不被渡、〈○中略〉佐々木四郎高綱、宇治河の先陣渡たりやと名乗も果ぬに、梶原源太毛流渡に上づにけり、源太佐々木鎌倉へ早馬お立、〈○中略〉三日と申に馳付て、高綱宇治川先陣ど申たり、同時に梶原が使又来て、景季先陣と申けり、右兵衛佐殿は、安立新三郎清恒お召て、佐々木梶原生た、りやと問給へば、共に候と申、其後は尋給事なし、後日の注進に、宇治川の先陣は高綱と被注たりけるお見給てこそ、言ばと心と相違なしとは宣けれ、