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太平記

千剣破城軍事
楠〈○正成〉は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城〈○千剣破〉お拵へける始、用水の便おみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛計也、此水いかなる旱にもひる事なければ、如形人の口中お濡さん事、相違あるまじけれども、合戦の最中は、或は火矢お消さん為、又喉の乾く事繁ければ、此水計にては不足なるべしとて、大なる木お以て、水舟おに三百打せて、水お湛置たり、又数百箇所作り双たる役所の軒に継樋お懸て、両ふれば霤も少しも余さず舟にうけ入れ、舟の底に赤土お沈めて、水の性お損ぜぬ様にぞ拵ける、此水お以て、縦ひ五六十日雨不降ともこらへつべし、其中に又などかに雨降事無らんと了簡しける、智慮の程こそ浅からね、〈○中略〉
新田義貞賜綸旨事
上野国住人新田小太郎義貞、〈○中略〉或時執事船田入道義昌お近づけて宣ひけるは、〈○中略〉船田入道畏て、大塔宮は此辺○金剛山の山中に忍て御座候なれば、義昌方便お廻して、急で令旨お申出し候べしと、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける、其翌日船田己が若党お三十余人、野伏の質(すがた)に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似おして、朝まだきの霧隠に、追つ返しつ半時計、同士軍おぞしたりける、宇多内郡の野伏共是お見て、御方の野伏ぞと心得、力お合せん為に、余所の峯よりおり合て近付たりける処お、船田が勢の中に取籠て、十一人まで生捕てけり、船田此生捕どもお解脱して潜に申けるは、今女等おたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず、新田殿本国へ帰て、御旗お挙んとし給ふが、令旨なくては協まじければ、女等に大塔宮の御坐所お尋問ん為に召取つる也、命惜くば案内者して、此方の使おつれて、宮の御座あんなる所へ参れと申ければ、野伏共大に悦て、其御意にて候はヾ、最安かるべき事にて候、此中に一人暫の暇お給候へ、令旨お申出て進せ候はんと申て、残り十人おば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける、今や〳〵と相待処に、一日有て令旨お捧て来れり、