[p.1259]
太閤記

秀吉初て普請奉行の事
或時清洲の城郭、塀百間計崩れしかば、大名小名等に、急ぎ掛直し可申旨被仰付しかども事行ず、廿日計出来もやらで、御用心も、惡ければ、秀吉千悔し、〈○中略〉如此延々に掛る事招禍に似たり、危事かなとつぶやきけるお、何とかしたりけん、信長公きこしめし、猿めは何お雲ぞ、何事ぞ上問給へ共、さすが可申上義にあらざれば、猶予し給へる処に、是非に申候へとて、かひなお取てねぢかゞめ給ふ、〈○中略〉、有の儘に不申は惡かりなんと思ひ、御城の塀などお、今世間不穏折節、如此、延々に掛申事にでは有まじくや、深堀高塁全身、敵国お並せ平呑天下せんと思召大将の、かゝる事や有と、御普請奉行お叱りけると申上ければ、猶能ぞ申たりける、武勇の志有者は、此こぞ有度物なれ、女奉行し急ぎ拵ひ可申と被仰付、〈○中略〉さらば割普請に沙汰し申さんとて、下奉行共と相謀り、百間お十組に令割符、面々に充しかば、翌日出来し、腕木ごとに松明おも掛置、掃除以下きらよく見えし折節、信長公御鷹野より帰らせ給ふて、御覧じもあへず御感有て、御褒美不浅、其晩に被召出、御扶持方加増有けるこそ、終お初に立る徴兆也と、後にぞ思ひ知れたる、