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関八州古戦錄

野州早乙女坂二度目合戦附那須高資横死の事
那須衆、機お得て競ひ懸るお、大関高増下知おなして、頻りに戦ひお制し引挙たり、宮方も是お幸として陣お沸て退散す、那須党の輩立腹、〈○中略〉後年次郎資胤、此義お大関に問れければ、高増答へて申けるは、
雲は皆ばらひはてたる秋風お松に残して月お見るかな、と雲る古歌有、我等が軍配是也、子細は最初右馬頭尚綱お討取し事、当家十分の誉れなり、然るお今度弔合戦の為、広綱の代官として罷向ひたる芳賀十郎お、またもや討取申に於ては、さしも名高き宇都宮二代まで、那須党に亡されしと、世上の人口勿論の上、天の照覧なきにあらず、武運の冥加遠慮おなすべき所なり、当時相州の氏康、関東随一の猛将にして、隙あらば八州の諸大将お団下に靡けしめんと、日夜朝暮に心お砕力るヽと聞及ぬれ其、未だ野州表へ働お懸られざる所為は、古来宇都宮結城小山なんどヽて、誉れの歷々有が故也、当方件の一戦に芳賀お討取侍らば、宇都宮家の威光衰て、氏康は時お得て、終には那須党の匹敵と成、後には奥州の葦名、前には南方の氏康お引受なば、勇々敷大事、当家の滅亡踵お廻すべからず、援お以勝お残せるもの、其天お恐ると雲諺ありと答ければ、資胤お始、党の面々迄も、其心お感じけると也、