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川角太閤記

一長岡兵部大夫殿、〈但幽斎之事〉此家今迄相続候義は、偏臣下松井佐渡守分別と承候、其子細は信長公の御時、津の国河内の国両国の内にて、十二万石可被遣候、但丹後一国は、十二万石にて、何れにても望の分お可遣と被仰渡候処、同は津の国河内の内お以拝領可仕候、作去御返事は明日可申上候とて、御前お被罷出候、〈○中略〉松井佐渡守、有吉四郎右衛門、米田次郎兵衛、右三人に談合被仕候へば、二人の者は、丹後は遠国にて御座候、摂津国河内は、京著能御座候間、二箇国の内お以て御拝領候様にと申上候処、松井佐渡守申様には、御分別も申上候通、一つにて御座候と相見申候、遠国の様にも御座候、京著右之両国とは違可申候へど、分別仕候に、後天下と西との争ひ御座候ば、摂津の国河内の国、弓矢のちまたにて可有御座候、天下と東との争ひ御座候時は、美濃尾張近江、此二三け国の間にて、以来迄も、此所弓矢の岐に可罷成と古き者共申伝候、隻今存候、摂津国河丙の間にて、十二万石迄にて天下へ付候共、西へ付候共、中々其日にはだか城に罷成、其上十二万石の御知行所、二三年の内、亡、所に可罷成候間、隻遠国の丹後お一国御拝領被成候へば、天下に何事御座候共、五十日百日の間には、世間静り候事お、丹後国にては、ゆる〳〵と日よりお御覧可被成候、是にては以来御家続可申候間、御分別違に被成、丹後お御拝領可被成事、私へ御まかせ可被成候と、達て申上候処に、さらば佐渡守に任せしそ迚丹後拝領なり、其後明智殿信長公お奉討候時、摂津国河内は乱れ、中にも摂津の国、一両年亡所に罷成候と相聞え申候は、是は偏に佐渡守分別厚き故、今迄も打続き、殊に長岡の家、今程は大名に相成候事、臣下松井佐渡守故と相聞申候事、