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武将感状記

一水野六左衛門勝成、武者修行おしたる時、佐々内蔵助成政の備お借て居れり、成政の家に阿波鳴門之介と雲壮士あり、度々戦功ある者なり、こすに越れぬと雲下心お以て付たる名也、何の処の戦にか、勝成其名の故お聞て悪之、其陣に往て鳴門之助に対面し、貴殿はこすに越れぬと雲下心お以て、名お付れたると聞及候、明日の合戦にこすや、こさずや、我と貴殿と先お争候ん如何と雲ば、鳴門之助是皆申者の誤に候、祖父よりの名なる故に、我等も付たるに候、中々其義にあらず、其上貴公の武勇比類少く候へば、我等如きの者、先お争はん事及べからず、隻御免候へと卑下したるお、勝成再三しいけれども、鳴門之介固辞す、勝成此上はとて人に語て、鳴門之介おぞ嘲ける、鳴門之介は勝成が気おゆるめて、其夜の子の刻より出立て、勝成が陣屋に潜に人お付置て窺するに、油断したる体なり、鳴門之介悦て、明旦戦ひ始らんとする時、敵陣に馬お一文字に乗入鎗お合せ、多兵の中に取まかれ、数け所大創お被り、息きれて僕たり、敵首お取んとする時、成政の総軍鬨声お挙て、攻近づきければ、首お取に隙なくして引取けり、鳴門之介が従者肩に掛て帰ければ、幸に蘇生しぬ、此時勝成に使お立て、今日の先登は定て貴公にてぞ候らんと雲やりければ、勝成面目お失へり、是勝成一世の不覚と雲り、