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藩翰譜
八下/相馬
景勝〈○上杉〉が兵起りし時、伊達左京大夫政宗は、急ぎ本国に帰りて、搦手より攻め入るべき由の仰承て、大坂お打立ち夜お日に継て馳せ下る、白川より白石に至ては、皆敵の中なれば道塞りぬ、常陸国お廻りて、岩城相馬にさし懸て国に帰らんとするに、相馬又累代の敵国なり、恙なく通らんこと協ふべからず、然るに政宗才かに五十騎計引具して、常陸の国お経て、岩城と相馬との境なる処に至て、先づ相馬が許に使者お立て、〈○中略〉願はくは城下に旅館点して給はらんには、馬の足お休めて、明日は国に入らんと存ずと雲はせたり、長門守義胤〈○相馬〉是お聞て、〈○中略〉頓て民家おしつらうて迎ひ入れ、家子郎従等召し集めて、夜討のやうおぞ議したりける、援に水谷三郎兵衛尉某、遥の末座より進み出て、末座の意見恐れ入て候へども、既に僉議の座に列て候ふ上は、心に存ずる所お申さゞらんは其詮なし、抑も窮鳥懐に入る時は、猟者もこれお殺さずとこそ承はれ、政宗ほどの大名が既に年来の恨お棄て、君お頼みて来りしお、たばかつて闇々と討たれんば、勇者の本意とする所にあらず、長き弓矢の瑕瑾なり、又我が城お去て、彼国の境駒が峯に到らんこと、行程僅に三里、けふの日未だ未の時に下らず、政宗おのが境に到らんとだに思はゞ、日ゆふべならざる間に到りぬべし、それに僅の勢お以て此所に止ること、凱深き謀計なからざらん、隻同じくは我備お全うして、彼に代つて夜お守り、先づ此度は本国に返し給ひ、重て戦に臨まん時、尋常に軍して勝負お両家の天運に任せらるべうもや候はんと申ければ、満座の輩、皆此議に同じて、彼が旅館の辺に、粮料、魚、塩秣、糠、藁に至るまで積み置て、夜に入り四面に策火たかせ、兵共に館おめぐらせ、警衛心お尽してけり、