[p.1266]
川角太閤記

関け原の時、国大名衆、分別お以其家無恙続申候家は、鍋島加賀守〈○直茂〉と申は、隻今の鍋島殿親父にて御座候、其頃迄は達者にて被罷居候、御所様〈○徳川家康〉東へ御馬お被出候お被聞、大略御跡にて謀叛企衆可有之候、御所様御馳走とて、国大名衆荒増御供に被参候と相聞え候、我家は東への御供不仕候へども、国離れざる様成分別有之、銀子五百貫目、東へ為持可下なり、尾張国より御所様御分国之義は不及申、景勝との境目迄の国々の町方にて、五貫目程づゝ見合見合兵糎お為買、其町々の年寄共に可預置なり、上方に事出来たりと雲ならば、御所様へ申上様には、鍋島事、御馳走に可被出覚悟に候処に、上方蜂起仕候間、最早鍋島可罷出事は、中々罷成間敷候間、此兵粮入不申候とて、町々にて兵粮お可奉指上と申付、奉行三人東へ差下し申候、御所様はや宇都宮へ御著被成候とひとしく、治部少輔謀叛の様子相聞申候処に、彼鍋島者ども、右の御理申上、はや宇都宮にて兵粮指上申候、〈○中略〉鍋島奥意は、日よりお伺候と相聞候へ共、親加賀守分別お以国に離れずと、世間に其節専ら申あへると相聞え申候事、