[p.1266][p.1267]
明良洪範
二十四
真田伊豆守信之の夫人
会津の役に、真田安房守昌幸、其子伊豆守信之と内府公〈○徳川家康〉に従軍せん迚、上田お発足し、佐野に到れり、時に石田三成より書お贈り、大坂に与力せん事お進む、父昌幸忽ち志お変じ、大坂に与力せんとす、信之頻りに是お諫むれども承引せず、依て父子東西に別れ、昌幸は兵お収めて上田へ引返す、信之は関東に下りぬ、初め信之が夫人は、本多忠勝の女にて、内府公の御養女と成し給ひ、信之に嫁せしむ、夫人性質智勇あり、信之発陣の時に及びて、夫人の謂れしは、妾は女の身として申難事なれども、愚意お以て察するに、房州公の御心計難く、今の世にとりて、父子兄弟迚も、御心お緩し給ふまじ、隻此事肝要ならん、信之黙領して出陣せらる、其後果して中途より引返し、沼田に到り、信之の妻の幼孫に対面して、上田へ帰らん迚、夜に入て、信之が居城沼田へ使お遣はし、暫く城中に入り、休息せん事お乞はしむ、夫人是お怪み、使者に問はしむるは、今内府公お捨て何故に帰陣し給ふや、使者の雲、何の故かば知らず、俄なる事の由にて帰り給ふ、夫人又問はしむ、豆州君は御同件なるや、使の雲、左衛門君のみ従ひ給ふ、夫人此由お聞て、是定めて旨趣有べし、女なれども此城お預お、御留守お守るに、舅と雖も故なく城に入るヽ事有べからず、若強て城に入らんと思召ば、先幼児お殺し、我も自殺し、放火して城お渡し申すべし、然らざれば城下の市中おかり、休息し給ふべしと答ふ、使者恐怖して返り、復命せんと城門お出る時に、はや櫓門には兵お備へ、弓鉄炮お備へ、敵お待の風情也、夫人は剃刀お侍女に持せ、其外侍女六七人鉢巻たすき抔して、防守の備お指揮し給ふ、使者返りて其趣お述ぶ、昌幸しばし案じ、我過てり、我其事お察せざる事卒爾なり、誠に本多が女なりと戚歎し、又使お遣はして、我此城お取んとには非ず、孫に逢ん為也、必ず心お労する事勿れ、夫人敢て聞ず、則命じて城下の市中に於て宿舎お設け、有司お出して諸事お宣ふしめ、男三争闘の事有ん、女婢三十人計鉢巻たすきにて捧お授け、是お警護せしめ、食膳お設けしむ、昌幸の士卒は、犬伏より数里の間お急ぎ、大に疲労したれば、沼田にて休息せんと思ふに、敵中に在る如くなれば、急ぎ食事終ると速に発足す、昌幸幸村市舎へも入らず、野原に陣お設け、休息して上田に帰る、其後夫人は思慮し、父子東西へ分れたれば、家老物頭以下の諸臣も、心お変ずる事も有んと一計お設け、老女に命じて、我君の留守寂寥お慰めんと、諸臣の妻妾子お聚め、遊楽お設け、是お饗応せしめ、数日の間我宅へ帰る事お許さず、人質になされ、因て諸臣一人として、異心お出す者なきは智略に由れば也、