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常山紀談
十九
細川忠利の士、川北九大夫といふ者あり、川尻の代官お勤めよとありしに、出陣の時供に連られなば、代官の職つとむべしといひければ、猶とて出陣の時供すべしと定めらる、天草はやゝもすれば、一揆おなす所と、西国の人のいひける事なれば、心にかけて、川尻は海辺船の著く処にて、細川家の米蔵あり、天草へ海上七里と聞ゆ、川北兼て地鉄炮の数おしらべ置けり、〈地鉄炮とは猟師の事也〉天草の一揆起ると聞て、川尻の海岸に一間に一本づゝ竹お立させ、一本ごとに火縄おゆひ付、五本に一人の地鉄炮お配りけり、後に天草にて生どられし者のいひけるは、其夜川尻の米お取ん為に、船おおし出して見しに、川尻にいくらともなく、鉄炮お備へて見えたる故、さては熊本より軍兵のはや川尻に来れりとて、船おもどしけるとなり、