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常山紀談

直家〈○浮田〉は和泉能家の孫なり、能家はもと浦上掃部助村宗に仕へ、備前邑久郡砥石の城に居れり、浦上の長臣島村豊後守、後入道して貫阿弥といひしは、鷹取山の城に有て、威勢ありて能家お殺害せり、〈○中略〉直家物静なる生得なりしが、十一歳の比より俄に愚眛になりて、誠に菽麦おもわきまへず、天文十五年、直家十五歳に成ぬ、母の方にゆけば母涙お流し、三人中にも兄なれば、せめて人なみにもあれかしと思ひしに、すぐれたるおろかさよ、人なみならば殿に申て、草履おもとらせなん物お、いかなる因果にて、かくうきことお見るやらんと、打しほたれたるお、直家見て側近く居より、実に愚なるには候はずといふ、母聞て女ほど愚ながらも猶かしこしと思ふやと、いよ〳〵なげく体なり、直家こゝに一の大事あり、誰にもかたらせ給ふな、もし洩し給ふほどならば、其事協候まじといへば、母それはいかなる事ぞと問、直家よく聞せ給へ、祖父泉州おば島村が殺したりき、父仇お得討給はで、口惜くこそ候へ、いかにもして一度祖父の弔お遂んと存るに、島村お殺すに過たる事や候、われもしかしこきと島村聞なば、其儘にてすて置べきや、隻是のみ心お苦め謀おめぐらし、父祖の恥お雪ばやと存るなり、はや十五に成候ぬ、殿〈宗景おさす○浦上〉に奉公仕らんやうおはからせ給へ、かりそめにも此一大事口に出させ給ふなといひたりしかば、母驚き且悦て、密に宗景に告て、直家初て仕へけり、