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野槌
下六
させる事なき事ども、自讃するためしに、余〈○林道春〉が弱冠の比、太相国〈○徳川家康〉まだ内大臣にてまし〳〵けるが、二条の御所にて拝謁し奉りし時、兌長老、佶長老、清原極臘なども、祗候せられしが光武は、高祖より幾代へだゝりけると尋仰ける、各おぼえ申されざりければ、女は覚えたるかと仰事あり、光武は高祖九世の孫也と、後漢の本紀に見え侍ると申す、又返魂香の事は、何れの書にあるぞと、の給ひければ、皆人覚束なきよし也しに、返魂香の事、史漢の本文には見え候はず、白氏文集李夫人の楽府と、東坡詩注とには、武帝のたきて、夫人の魂お来すとしるし侍と申す、又屈原が蘭は、何おか雲と仰られしに、朱文公が注には、沢蘭なりと候と申す、太相国、左右おかへりみ給ひて、年わかきものゝ、よくおぼえたりなど、感じ仰られき、慶長乙巳〈○十年〉の年也けり、藤斂夫〈○藤原惺窩〉の、和歌浦菅神廟碑お書て見せられしに、宜攘斥拒絶之不暇、却慫慂之と雲句あり、却字いかゞ侍らむ、而字はまさるべきにや、古文におほき中に、ことに左伝にあまた所、此字法あるやうに覚ゆと雲ければ、げにもさにこそとて、みづから筆おとりて、却の字お、而の字にあらたむ、さて菅相の諱お道真と雲事、別に又見るやと申されければ、近比、近江甲賀金勝寺の官符は、菅相の親筆なるお見侍しに、菅原朝臣道真と、位署にたゞしくありといへば、斂夫興に入られ侍りき、