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続古事談
二/臣節
入道、〈○藤原信西〉出家の心付て後、院にて宇治の左府〈○藤原頼長〉のいまだわかくおはしけるに参会て申て雲く、おのれは出家の暇申て、巳に法師になり侍りなむず、それにいたましき事の一侍也、才智身に余りぬるものは、遂に不運なりと人の申て、学問おものうくせむずる事のか才智お極めて、しかも人臣のなしきなり、君は摂錄の家に生れて、前途たのみおはします、必学問位お極させ給て、おのれ故人のおこしたらむ邪執おやぶりて給へと被申ければ、つら〳〵とかほおまもりて、御目に涙お浮べて、詞はなくてうなづかせ給けり、其後出家して、両三年おへて後にのう、左府風の病お煩給けるに、入道御訪に参して、御病おもからねば、作臥文談し給けるほどに、亀らと周易のうらと、何れ深しと雲事お雲出して、左府は亀のうら深しと被仰けり、入道は周易深しと申けり、其論事の外にしあがりて、文お取出、本文おひくに及びにけり、良久く論じかたまりて後、入道遂に奉負ぬ、さて入道申て雲く、今は御才智すでに朝に余らせ給にけり、御学問いるべからず若猶せさせ給はヾ、一定御身のたヽりとなるべしと申て出にけり、此事お自もいみじき事におぼして御日記にかヽれたり、其詞に雲く、先年院にして学問すべきよしお被挑ことは、予が廿の歳なり、今病席の論廿四歳也、わづかに四年の間に、才智既に彼が許可お蒙る、都て四年の学問の間、書巻お開くごと、彼一説お忘るヽ事なし、今感涙お拭ひて、此事お記すと雲々、臥雲日件錄宝徳元年閏十月三日、長照院竺華来過、竺華曰、慈氏祖翁、住常在光寺時、一日心華来扣、祖翁告之曰、若為文字商量、則頻来也不妨、若為講礼、則不可也、老僧惜日、不徒対賓客也、心華為之欽伏、以后来時、凡所疑之事、件々書之掌面、逐一諮問、或有不是則国此事常人所知、何故相問、心華日、常人縦棣不知雲々、予曰、心華文所以心華、其今人不問疑者、沼々皆是矣、凡学不進、問与不問乎、竺華曰、吾翁大椿、筑紫人也、少年東遊、就常州師、学四書五経、始聞孟子講時、食不足、就人求豆一斗、掛之座隅、日熬一握、以療飢耳、如此者凡五旬、後将聞易語、而乏資用、為之西帰紫陽、求財於親族、得銭十五貫、自持又東遊、遂得易学雲々、予曰、今時如此困学者、不復多見之、