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陰徳太平記
十八
備後国神辺城明渡附目黒最後之事
去程に平賀〈○隆宗〉杉原〈○忠興〉昨日今日と思し中に、はや改玉の年の三歳お戦暮しけれ共、早晩此城可落とも不見けり、然間隆宗も術計尽、勇気緩て、今は天運に任せばやと思惟して、忠興へ使お遣し、近年御辺吾等、人交へもせず、遂合戦候へ共、未勝負お不決、徒に歳月お送り、士卒或は討れ、或は疵お蒙る者、若干と雲ことお不知、かく士卒お令労、民お苦しめんより、吾運お司命星に任せ、御辺の矢二筋受可申間、中り候なば、隆宗が運の極めにて候べし、若射外され候はヾ、速に当城お明渡され候へと雲送りければ、忠興弓は蚊の睫蟻の眼なりと雲共、目にさへ見えば射中らんと自賛して、甘蠅養由墓にも不劣、善射なりければ、不斜悦んで、頓て約おぞ定めける、かくて頃は天文十九年十月十三日、忠興隆宗唯二人わざと人一人も不召具、城の尾崎へ出逢たり、〈○中略〉一の矢、雁俣お以て、刀脇剌お射挟み、太腹へしたヽかに立たりけれ共、隆宗さる大剛の者なれば、二の矢射越せん為に、かく方便てぞ雲たりける、忠興扠は下りけるよと心得、二の矢少其心おしてければ、今度は隆宗が肩の上お摩る許に射越、後の石に中り、石火活と迸り、鏃は砕けて飛反る、其時隆宗十間許り立退、約束の如く当城お明渡され候べしと雲たりければ、忠興も誓約金石よりも堅しける故、季布が二諾なく、楚王の一言お重んじて、城中の掃除、粲然にして、同十四日、城お平賀に渡し、吾身は尼子お頼み、出雲へこそば越にけれ、