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藩翰譜
五/阿部
対馬守重次〈○阿部〉十一月〈○正保四年〉二日、御暇給りて夜お日につぎてはせ登る程に、同き八日、大坂に著て父〈○正次〉の病お見るに、既にかうよと見えしかば、今夜重次、此所の奉行城番の人人に向ひ、父がいたわり、朝た夕お待つべからず、已に身まかり候はんは、御座所お穢し参らするの恐れ少なからず、速に私の別業に移り、終焉の事おはからん事お存ずる、如何にといひしかば、兼てより面々も此事お存じ候ひき、御計らひ猶も然るべう候と、皆一同に答ふ、重次、父が枕により添ふて、なく〳〵此由お申ければ、正次全く女の諫る処お拒ぐには非ず、たゞし聞く処の如きは、正次所存に聊か違ふ処あれば、重ねて人々と計りて、義の当らん所に従うと思ふなり、正次始め此所にまかり登りし蒔、将軍家の御前近く召れ、抑も大坂の城は、五畿内に有て、近くは王城お鎮護し、遠くは南海、西海、山陽山陰の要路にあたりて、数十州の鎮たり、女が当家累代の旧臣にして、慶長元和の戦功、他に殊るお以て、我が代官として、此城の事おつかさどらしむる処なりと、仰せ下されしかば、正次不肖の身おもつて、斯る重職にあらん事、如何で其任に堪ゆべき、去りながら世既に泰平に属し、当時何の憚り候べき、若くは又如何なる窃盗偸盗など起て、城墻お窺ひ候はんに、正次が身、命のあらん限り、城おば守りて、人手には渡し候まじ、隻之お以て、正次が奉公の節と仕るべきにて候と答へたてまつりて、まかり登り候ひき、去れば正次が一息も息の続きて有ん程は、此城お誰にか渡し候べき、又正次こゝにて死したらんには、君のましまさん所お穢し申すの憚りあるに似たれども、凡そ塀お高くし、池お深くすると雲事、危きに臨みて、戦士死お以て守るべき為めなれば、しゝむらお積みて、塁お増し、血おしたみて、水お深くする事、古より其例し少からず、是等の事お以て思ふに、人々の議せらるゝ処、正次が素懐に同じからざるに似たり、〈○中略〉すべからく人々議せらるゝ処、正次が思ふ処お注進し、早馬お参らせて、御裁断お仰がるべうもや候と雲、〈○中略〉飛脚到来し、将軍家、事の由聞し召し、御感ことに斜ならず、正次が所存御旨に違ふ事なく、最も神妙に思召す、隻其儘に候べしと仰下され、同き十二日に飛脚馳せ帰り、正衣仰お伝へ聞て、感涙に堪ず、わづか一日おへて卒す、