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駿台雑話

二人の乞児
享保癸卯の歳の十二月十七日、江戸室町の商人、越後屋吉兵衛といふ者の手代市十郎、諸方の買懸の金請取て帰りしが、金三拾両入たる袋ひとつ見へざる故、さだめて塗にておとしたるものにてあらん、もはやあるまじきとはおもひながら、もと来し路お段々に尋ねありく程に、ある所に乞食一人ありしが、見とがめてなにお尋候や、もし金おおとさるゝにては候はずやといふおきゝて、市十郎うれしくて有のまゝに語りければ、〈○中略〉取出し袋のまゝにて渡しけり、市十郎余の事に、さてやみがたくて、内五両取出して、是は責てそこの得分にせられよとてあたへけれども、中々受るけしきなし、市十郎いひけるは、此かねはなき物にきはめ置しに、そこの志ゆへにこそ、ふたゝび手にも入たれ、然るおのこらず我物にすべきにあらず、達て受てくれ候へといへば、よく考へて見給へ、其五両おもらふ意得ならば、三拾両お返し申べきや、もとより自分のよくにて拾ひ置たるにてなく候、定ておとしたる人、主人のかねなどならば、さぞ難儀に及ばるべし、他人に拾はせなば、其落せし人にはふたゝび返るまじ、さらば我等拾置て、其人に返さまく思て、拾置たるにてこそ候へ、そこもとへ渡し候へば、我等が志通りて候、さらばいとま申候はんとて、其まゝそこおさりて、見かへりもせで行けるお、市十郎跡おしたひて、取あへず懐中より金一星取出し、けふは寒気もつよく候、帰られ候はゞ、是にて酒おもとめて、たべられ候へとてあたへければ、是は御志にて候まゝ申受候て、是にて御酒給申べきとて、それおば受て立わかれける、名お尋ければ、名は八兵衛とて、車善七が手下の乞食のよし申候〈○下略〉