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長崎夜話草

長崎清民一人
完永の頃、大村町に布屋了心といふ者ありし、本泉州の産にて、壮年長崎に来りて居住す、本より妻もなく子もなし、もろこし船より、もて渡る沈香お商ふ事お、恒の産とす、唐土人の知たるがあまたありて、年ごとに持来るお買とり、品お分ち撰び売て、その利お得て生計となせり、ある時、沈香一籠お買とり、もてかへりひらきみしに、沈の中に、奇楠の一木、雑りてありしお見出つゝ、おどろきていそぎそのぬしなる唐人にかへしたりければ、甚だ悦び感じて、日本の賢人なりと、敬ひ貴とびたりとかや、〈○中略〉一とせ入津せし船の、旅館と頼みなんとて、船主より了心が名お、公けへ書付、さし上侍りしかば、やがて布屋了心とてめし出され、船主の願ひの如く、女お旅館に免許あるべしとおほせごとありし、其頃長崎に来れるもろこし船は、いづれも因みにしたがひ、商家お旅舎と定めありて、その荷物悉く宿のあるじのまかなひにて、徳お得る事山の如くにて、一夜がほどにも、富る身と成ことなれば、神にいのり、仏にねがひても、誰かは是お有難しと受ざらん、しかるに此了心、官長のおほせに答ていはく、我身本より妻子なく、沈お商ふおもて、衣食豊かにして、心常に安楽なり、此外世に何の望みなし、一婢一僕ありて、身体の労お助けて、家内常に静か也、何ぞ異国の客お、宿するの苦おせんと、かたく辞して、つひに退きぬ、此ひとつおもて、余の有さまおしはかるべし、