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雲萍雑志

浪華に紀伊国屋亦右衛門といへるは、大家の商人なりけるが、そのかみ年まだ若かりしころ、本家何がしにつかへ、〈○中略〉一万両お十万両になさんこと、何の子細かさむらふべきとて、三とせも経ぬ間に、十万両に倍して来れば、主人その働きお感じて、その辛抱、この上は差図すべきにもあらねど、この度は百万両にも倍すべくとあれば、亦右衛門こだへけるは、十万両のこがねお以て、百万両にすることは、辛労するに足らざるなり、さて承り侍り度ことあり、当時主家の御身帯、いかほどの御儲にて侍るにかと問へば、主人こたへて、わが身帯には、いかほどゝいふかぎりもあらざるなりといへば、さほどのたくはへおはしても、その上にも猶こがねおほしと、思し召しさむらふにやといへば、猶ほしとおもふこと、いまだ飽くことおしらずといふに、亦右衛門また申けるは、さあらば此こがねお倍することおば、是お限りとして給はれかし、我等は命こそ宝なれ、命ありてのうへの財なり、命なくては財ありても、益なしと申すに、〈○中略〉十万両お主人にそのまゝ奉り、けふまでのことは、奉公の身なれば、仰にそむきがたし、今より我身には願の侍れば、暇給はりて、そのうへのことはゆるし給へかしとて、いとまお乞ひて、わが家にかへり、若干のこがねお、縁ある輩に配り分ち、身帯おしまひ、頭おそり、円智坊と改名して、大融寺の徒弟となり、京へいでゝ、菴室おかまへ、日々に托鉢して、洛に終れり、そのゆかりの者、大融寺に塚お建てたり、石に刻める辞世の歌に、
落ちて行くならくの底お覗きみんいかほど欲のふかき穴ぞと