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百家琦行伝

川村瑞軒
瑞軒、はじめは十右衛門と呼、後に瑞軒と改む、原は車力にて東武の産、神田、浅草、芝などに住て、初は住処定らざりし、若き頃は家まづしく、一時京摂にゆきて活業お作べしと旅立せしに、路費乏くて行事あたはず、大井川の辺より転回(ひきかへ)しけるに、懐裏に一もんの路費もなく、路上人の飡さして捨たる西瓜の皮などおひろひて冷し、あるは畑のほとりに切捨たる瓜茄子おひろひて飡、辛して命おつなぎ、江戸に帰り、品川宿に知己の家のまへ過りかぬる子細あり、裏町およぎりて、塵芥場の中にて人の捨たる古き雪踏の、かたしづゝの腐たる如きものお、二三足看著いだし、此皮おとりて、川の中にて能洗ひ、路傍の垣下のうちより、細き竹お四五ほん抜とり、かの皮お三角に切て結びつけ、蠅払子といへる物おこしらへ、然して路上かはの蠅はたき、皮の蠅はたきと呼て、売あるきけるに、江戸はさすがに繁花の地にて、忽ち是お買ふもの有て、当日夕暮には残らず売きり、やう〳〵百余孔の銭お得て、あやしく命おつなぎけり、次の日よりは、往来の人のはき捨たる草鞋、あるは馬の鞋など多く拾ひあつめ、川の中へ漫しおき、土およく洗ひおとし、泥土のつかふ寸莎といへる物に刻み、泥匠の家にもて行きて売けるに、元来やはらかにて、苧寸莎にも猶勝りけるにぞ、這職の人は喜んで是おもとむ、是より十えもんが寸莎とて、諸方より求め来り、大いに流行けるにぞ、やう〳〵事かゝぬ身と成にけり、