[p.0064][p.0065]
鳩巣小説

一松平土佐守どの先祖山内対馬守どの〈○一豊〉こと、信長の時分、山内伊右衛門と申候て、五百石取申候時分、仙台よりよき馬売に参り候、伊右衛門、或時外より帰宅候て、気鬱の体にて不快の顔色有之候お、内義(○○)見申されて、如何の義にやと尋申され候処、婦人などの知義にて無之旨被申候へば、いかにしても心元なく候間、達て御聞せ可有旨被申候、伊右衛門申され候は、されば比日仙台より売馬参り候、あのやうなる見事なる馬にのり候はヾ、戦場にて大将の御目に早く止り候て、働きも慥に見へ申ものにて候、武功の義、運次第のものに候、馬物の具抜群に候へば、人先に大将の御目に早く止り候て、働も大将御目お付られ候、是によつて此度の売馬買取候て、明日にも乗て出候はヾ、其まヽ信長公御尋に預るべきこと疑なく候へども、貧は諸道の妨にて候、是に仍て鬱懐の由被申候、内義申され候は、夫は何程のことヽ申候や、伊右衛門太分の事にても無之候、金子一枚と申由申され候へば、内義笑てそこお立申され、鏡お取て被参、鏡の下より金一枚取出し、是は私母よりもらひ置申候、母申候は、いかやうの難義に及び候とも、自分のことにはつかひ申まじく候、夫の急用と申時、是お用ひ候へとて玉はり候、夫れ故隻今まで隠し置候へども、此度の義は御立身の本に毛成申べく候間、是にて其馬お御買候へとて、渡し申され候、内義申さるは、飢寒などは人の常に有之事に候、此度の義は格別の義にて候、飢寒の時分は、何程難義にても出し不申由申され候、偖其馬お買て乗出申さる処、如案信長見付申されて、あの馬は誰にて候や、さても見事なる馬にのり候者哉と御尋候処、近習の人、あれは新座に被召抱候山内伊右衛門に候と申上候へば、信長あの馬お何とて求けると御尋に付、其義にて候、御目に入申も理にて御座候、あの馬の義は、仙台より遥ばる比日率上り候へども、求申人無之処、安土御家中ならでは、求め申人有之まじき旨申候て、御当家に参り候へども、誰も求申もの無御座候処、伊右衛門求申候由申上候へば、信長大に感じられ、当座に一倍の加増にて千石賜り候、其時御申候は、伊右衛門へ加増のこと能馬に乗とて加増するに非ず、奥州より当地まで罷上り候道中、北条武田おはじめ多くの家お経て、求人も無之、某が家ならではと存じて、はる〳〵是まで上る処に、某が家に求め不得して、空しく帰さば、敵家へ聞へても、其外聞失ふこと也、其処お伊右衛門笑止に存て、定て求めくると存る也、此心得奇特千万に存る故、加増申付たりと御申候よし、