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有徳院殿御実紀附錄

御受職〈○徳川吉宗〉の後、唐破風造の四足門、および有来る御まし所おもこぼだれけり、これそのかみ、勘定奉行荻原近江守重秀うけたまはり、金玉おちりばめ、華美お尽して、造営せしかば、その費用七十万金に及びしとなり、又後園に沈香もてつくりし亭ありしおもこぼたれ、芝口に建られし郭門も、火にかゝりしのち、ふたゝび建られざりし、皆近世華奢の風お、宗祖質素の俗にかへし玉はんとのみ、御こゝろもちひさせ玉ふなりしとぞ聞えし、〈○中略〉御みづからは、かの御まし所こぼたれし後、その側にいさゝかのこりたる廊おしつらひ、そこにおはします事、十二年の久しきにいたれり、此廊は東西にむかひたれば、炎暑のころ、朝夕の日さし入て、暑さ堪がたく、侍臣等さへ、いとくるしとおぼえたるに、少しもいとはせ玉ふみけしきなく、すませ玉ひぬ、のち天下もやゝ豊かに、四民、もうるほひしに及び、享保十二年二月にいたり、はじめて御まし所の新営お仰出され、金銀のかざりおとゞめ、もつはら質素につくられしとぞ、誠に天下の楽に後れて楽むとは、かゝるたぐひおや申し奉るべきと、其ころものしれる人は感じ侍りき、〈○中略〉
大統うけつがせ玉ひしころは、元禄宝永の間奢侈至極し、天災打つゞき、大喪しば〳〵かさなりし上に、御受職の大礼おはじめ、外国の聘事、其外かぎりもなき費用ありしのちなれば、府庫虚しきが上に、天英院殿、月光院殿おはじめ、別館におはします方々、多く吹上及び浜のみたちなど引わかれ住せ玉へば、そのかた〴〵の厨料もまた少からず、よりて商工等に賜ふべき価までも、とゞこほりしに、連年水旱しきりに至りしかば、国財ほとんどつきなむとす、されど彼中構におはする先代の方々には、ゆたかにおくりあたへられて、さらに省減お加へたまはず、享保六年にいたり、賦税定免のごとく収らず、城塁半ば破れ、堤防多く崩れて、万民飢にせまりしかば、かれお修め是お救ひ玉ふにも、多くの財お費せり、はた府庫の金銀お点撿せらるゝに吾徳院殿〈○秀忠〉の御時につくられし宝貨〈金四十四貫七百目、銀四十六貫目在もてつくりし行馬にして、儒臣林道春信勝が、行軍守城用、勿作尋常費と銘ぜし、ものなり、〉も、前代に用ひ尽して見えず、よりて京大坂城中のたくはへおもたづねらるゝに、悉く空虚なりと聞えしかば、これより弥御身づから節倹おむねとせられ、あまねく省減の令お施し玉へども、同じ七年に至り、御家人に賜べき俸禄さへ足らず、盛慮お、なやまし玉へる御ありさまは、御側に侍る人々も、むねいたく思ひ奉るほどの御事なりしとかや、