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窻の須佐美

長岡の君〈牧野〉民部少輔忠周、〈後土佐守忠軌〉年若かりしに瘡疾のありしかば、牧野備後守貞通の長男忠敬お養子として、家お継しめられける、駿河守に任ず、長岡饒有の地にて富饒なりしが、中ごろ飛騨守〈忠成〉駿河守〈忠辰〉打つゞき驕奢なりしより衰しに、前年大火に城焼て、武具こと〴〵く焼失、水損もありて困窮に至り、上下難儀に及べり、駿河守忠敬年十七、これお深くうれひ倹約おはじめ、家老の中、私欲あるものお罪し、諸役人お吟味し、さて諸用お節約にして、自身木綿服お著用し、豆腐半挺お用ひて菜とし、万事これに準じて、日夜心お尽されければ、五年にして国も漸湿ひ、家中の禄おも滞なく渡し、民の窮するおも救はれければ、諸人感心し、士民の親みなづく事たぐひなし、