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雲萍雑志

予〈○柳沢淇園〉が交はりし人の子に、兄弟常に争ふものあり、兄は砂糖お渡世とし、衣食におごりて解りつれば、家貧しくしてまうけなく、弟は塩おあきなひて、麁食麁服し怠らざれば、家富さかへて不足なし、その兄常に弟が富めるおたのみて財お借りて、その世業お送るといへども、倹お守るの勤めなければ、いよ〳〵貧しくなりゆきて、多くの財お弟に乞へども、肯んぜざりけ、れば、あるおりからに、その兄の予が草庵に入来り、歎息して雲ひけるやうは、親類多く富りといへども、兄の貧しきお資けざるは、あかの他人に劣れるなるべし、かゝれば今より商人おやめて、武士ともならんことおおもふといふに、予は聞よりもあはれにおもひ、〈○中略〉予に伝る秘し芸あり、いはゆる能の狂言とひとし、教に随ふ心あれば、身お立家お起すべし、若又稽古に違へる時は、身お亡すこと遠きにあらず、よき慰の戯なれば、師弟の約おかたく契りて、この戯お習ふべきやと、詞お正して雲ひければ、親属どもの資もありて、身おも立て家おもおこさば、否めることかはとて、やがて師弟の約おなしけり、さて衣裳手もとにあらざれば、明けて来るお待たれば、約に違へず来りけるに、さめらは指南すべきなりとて、彼の温袍お取りいでゝ、著たる小袖お脱かへさせ、布衣の姿に取りつくろひ、著束のその身に馴れぬる迄は、その姿にて居るべきなり、衣体整ふおりからには、授くべきものあるなりとて、今まで著せし小袖おとりあげおき、月おわたり日おつみて、衣類のいまだ身に馴ずとて、授くる物もあたへざりしが、漸ひとゝせも過るうち、弟兄の麁服およろこび、かくてぞ家おも保べしと、倹お守れるやうすお賞美し、予が草庵に来て告れば、予も又兄の心おかたりて、兄にも弟がよろこびおつげ、身お麁略の間におきて、しばらく驕飾お廃する時は、求めずしても財は至れり、つとめよやといへるにいくほどなく弟、兄おあはれむからに、感じて多くの財お贈れば、ます〳〵かたく倹お守りて、身も立家おも起し、その富めること弟にも劣らざりけり、