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奥州後三年記

相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり、先祖より聞えたかきつはものなり、年わづかに十六歳にして、大軍の前にありて、命おすてゝたゞかふ間に、征矢にて目お射させつ、首お射つらぬきて、かぶとの鉢付の板に射付られぬ、矢おおりかけて、当の矢お射て敵お射とちつ、さてのちしりぞき帰りてかぶとおぬぎて、景正手負たりとてのけざまにふしの、同国のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり、これも聞えたかき者なり、つらぬきおはきながら、景正が顔おふまへて矢おぬかんとす、景正ふしながら刀おぬきて、為次がくさずりおとらへて、あげさまにつかんとす、為次おどろきてこはいかに、などかくはするぞといふ、景正がいふやう、弓箭にあたりて死するは、つはものゝのぞむところなり、いかでか生ながら足にてつらおふまるゝ事あらん、しかじ女おかたきとして、われ援にて死なんといふ、為次舌おまきていふ事なし、膝おかゞめ顔おおさへて矢おぬきつ、おほくの人是お見聞、景正がかうみやういよ〳〵ならびなし、